龍 草盧 たつ そうろ
   

春游公子競豪華
處々烟花染綺羅
請看東山多樂事
彼樓絲管此樓歌
春游の公子 豪華を競う
処々の烟花(=霞んで見える花) 綺羅(=婦人の衣裳)を染める
請う看よ(=看て下さい)東山 楽事多し
彼の楼は絲管(=三味線) 此の楼は歌
132.6p×66p

正徳4年(1714)生〜寛政4年 2月2日(新暦1792年3月24日)歿
 名は公美、字は君玉。中途で名を元亮、字を子明と改めたが、のち再び旧に復した。通称は彦二郎、のち衛門といった。諸葛孔明に私淑して草盧と号したが、別に竹隠、松菊、呉竹翁、明々窓、緑蘿洞、鳳鳴などとも号した。山城伏見に生れ、伏見の桂大納言経信の後裔というが、幼にして父をうしない、京都の筆商にひきとられて勉学した。
 はじめ荻生徂徠、太宰春臺の学を好んだが、のち京都に出で儒者宇野明霞の門に入った。ところが草廬は詩人としての才能に恵まれ、経学をおろそかにしたため、明霞の怒りをかった。明霞のもとを去った草盧は、「学は常師なし」と称して元文年間に京の烏丸小路に居し、生徒を集めて教授し、経営はすこぶるさかんであった。
 かれは和歌、和文にも興味をもち、契沖の説に傾倒したが、その本領はやはり漢詩にあり、宝暦の頃、京都に「幽蘭社」を結び、大阪の片山北海の「混沌杜」と並び称せられた。
 寛延3年(1750)より彦根候に遊事して、月俸をうけ、なお京都に住んでいたが、賓暦7年(1757)、彦根に赴任し、城中に邸宅を賜わり、その講莚に侍するものは600人をかぞえたという。安永4年(1775)官を辞して京都に閑居した。『唐詩材』『日本詩冊』『論語詮』『毛詩證』『金蘭詩集』『草廬詩集』『草廬文集』『草廬瀬尺牘集』など多数の著書がある。
 草盧の書は、李北海、趙松雪を学んだといわれるが、繊細で筆勢が弱いとの評がある。門人を厳格に訓戒しないとか、日常生活において、金銭上儒者としてふさわしくない行爲があるなどと非難せられている。廣瀬淡窓の儒林評に「龍草廬ハ(先哲)叢談続編ニ出デタリ、除リ評判宜シカラヌ趣ナリ」といっているのは、こうした点をいっているのであろう。『士太夫節倹論』などの静がある。
 「草廬 龍公美」の下に、白文の「公美」、朱文の「龍」の印が押されている。

推奨サイト
http://www.ritsumei.ac.jp/~mit03437/coe/heian/tenmei2/tenmei2_syoka.htm
http://72.14.235.104/search?q=cache:fxOeeNj5aNkJ:www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/prede_16.htm+%E9%BE%8D+%E8%8D%89%E7%9B%A7&hl=ja&ct=clnk&cd=16&gl=jp&lr=lang_ja


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